先週に引き続き、昨日は西船橋工房にてモノポリー大会が開催されました。
思ってたより参加者も多く、しかも塾生の友人が何人も参加するなど「地域に開放された」塾として(笑)、2時間激しく参加者全員がぶつかり合いました。
人生ゲームのようにルーレット回してその通りに進んで、起こるイベントこなしてゴールする…みたいなゲームではなく、運も必要だけどそれ以上に知恵と戦略が求められるゲームのため、自分が勝つために?というより他のプレイヤーを自己破産に追い込むために(思いっきり人間の性格が出ますね)頭を使うなど、提携・協力したり、TPO次第で見捨てたりなど、色々な景色が見れるのが面白いというか。
自己破産させられた者はペナルティーで腹筋が課せられるため、参加者はいかにして勝つか、いかにしてボロボロでも生き残るかの応酬でした。何人かは腹筋に送り込まれましたが(笑)。
さて、ラグビーのワールドカップも無事に終わり、今回の日本開催はあちこちで高い評価を受けているわけですが、東洋経済の記事の一部に色々と考えさせられる内容があったので、その部分をご紹介します↓
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また、主将のリーチ・マイケル選手が3度繰り返した「犠牲」というフレーズも見過ごせないポイント。冒頭の藤井強化委員長がこのフレーズを使っていたことからも、チーム内の共通認識だった様子が伝わってきます。
ただ「犠牲」は、個人の尊重や権利が優先される現代にはフィットしづらいフレーズであるのも、また事実。「組織のために個人を犠牲にしたくない」「それを求められる組織は息苦しさを感じる」という人が増える中、なぜ彼らはこれほど犠牲というフレーズを連呼していたのでしょうか。
その答えはラグビーというスポーツに詳しい人ほど理解できるはずです。もともとラグビーは派手なプレーが決まることはめったになく、そのほとんどが地道なぶつかり合いや仲間のサポートなど、チームに貢献するためのプレー。言わば、「チームのために自分を犠牲にすることが普通」のスポーツであり、彼らにとっての「犠牲」は世間の人々にとっての意味とはまったく異なるのです。
ルールに詳しくない人が、松島幸太朗選手や福岡堅樹選手ら快速ウイングの切れ味鋭いランや、田村優選手の多彩なキックなど、バックスの派手なプレーに目が行きがちなのは当然でしょう。しかし、そこに彼らの本質は、ほとんどありません。
フォワードを中心にすべての選手が「相手と体をぶつけ合い、密集でもみくちゃになりながらも、一瞬でも早く立ち上がり、懸命にボールをつなぎ、味方をサポートする」というプレーを連続させることが彼らの本質であり、その姿勢は犠牲そのもの。特に日本代表は、相手国の選手より体が小さいだけに、自己犠牲の姿が人々の心を打ちやすく、彼ら自身も誇りを感じられるところなのではないでしょうか。
そもそも「犠牲」というフレーズには、「ある目的のために大切なものを捧げる」という意味があり、かつて日本人の美徳とされた時代もありました。時代は流れ、個人の尊重が叫ばれる2019年に「犠牲」の姿が支持されたのは、それが古きよき日本人の気質であるからなのかもしれません。
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ひとりひとりの個性が求められるこの時代、日常生活で言おうものなら確実に批判されるであろう「犠牲」というワード、日本人特有の美徳ですよね。
良い方向に転べば賞賛され、悪い方に解釈されれば迎合とかなれ合い、ムラ社会などと揶揄される生きづらいこの時代に「One for All, All for One.」という考え方は、とても新鮮に思えます。
平成前半まではこの考え方がフツーだと思っていましたが、明らかに今は死語になりつつありますよね。敢えて現代へのアンチテーゼとして挙げさせてもらいます。