村上にあった「独善的」と「怒り」の感情は、一体どこ行った?その結末は?


羽田に戻ってきましたが、書類整理が膨大なため、もう少しだけラウンジで片づけてから工房に戻ろうと思います。

夜の羽田もライトアップが綺麗ですが、子どもという「生モノ」はそんなに簡単に予定調和通りに動くものではないのが難しいところでしょうか。

子どもというのは、どこに、どんな才能が眠っているか分かりません。
それがいつ花開くのかも。今日かもしれない、明日かも、1年後かも、5年後かもしれない。

子どもの無限の可能性が開くまで、葛藤もなくすぐの場合もあれば、散々の紆余曲折を経て難航してからの場合もあります。

後者の場合は、子ども自身が現実を受け止めてからでなければ、まず変わりません。少なくとも親が言って変わったケースはなく、自身のあまりにふがいない無残な結果に奮起する、親しい身近な者から屈辱を味合うなどのネガティブな理由もあれば、遅咲きで成功体験を積んでから小さな小さな一歩を踏み出そうとする決心して動き出すケースもあります。

要は、子ども自身が避けることのできない大きな一大イベントや一大事案に出くわして動き出すということでしょうか。それもお子さんによって差が激しいですね。

親御さんにお願いしたいのは、子どものうちから数多くの喜怒哀楽を経験する場を与えてほしいということです。場数の多いお子さんの経験値は、年齢が低ければ低いほど、強烈な吸収力で対処法を自然に身につけていきます。そこに気遣いや思いやりなど、感謝の気持ちも加われば、どこに行っても必要とされる、引っ張りだこの人材となるはずです。

私は子どもの頃から親に「熱意」「情熱」「真面目」などの局面をたくさん与えてもらって育ってきましたが、もうふたつ「独善的」と「怒り」の感情も同時に植えつけられたため、周囲に対してもキレやすく、自己中という生き方もしてきたため、感情の起伏が激しい青春期を過ごしてしまいました。社会の荒波で散々叩き潰されてきて、ようやく少しだけ「温厚さ」が備わってきた感じです(?)。

年齢が上がれば上がるほど、失敗のレベルや程度は大きくなります。
もちろん、それに合わせて精神的打撃も物理的打撃も半端なくなります。なので、子どものうちから、ある程度の処世術は教えるというより、気づかせたいですよね。

どちらかと言えば、現在の私は、物事を注視して、それに合った対処をするようになったというか。

それだけ、若い時代に比べると、物事を達観できるようになったのかな?と未だに自分で疑いながらも、塾生に穏やかに接する日々を過ごしています(塾生からは“ウソつけー!”と言われましたがw)。

子どもの伸びしろがたっぷりある時期に、どう多角的な視点で経験値を積ませるか…これは、当たり前のように見えて、意外と難しいことかもしれませんね。



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