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さぁて、いよいよ念願の軍艦島上陸を果たす記念日が来ました!軍艦島へは、船会社のクルーズ船で優雅な船旅をしながら向かいます。
天候が悪くない限り、例年この時期は90%くらいの確率でクルーザーから島に上陸できるので、未知の領域に足を踏み入れ、感動の瞬間を拝めるはず…って感傷に浸ってたら、次の瞬間、朝からTVを賑わせている集中豪雨のニュースに…。
「ん、この映像、長崎駅前じゃね!?」
宿泊してるホテルの周辺が、なんと冠水してる映像がーーーー!!!!
大気の状態が不安定で、TVでイヤというほど聞かされた「集中豪雨」のニュース、なんと長崎が一番被害食らってない、これー???その結果、船会社から連絡があり、本日は軍艦島上陸ツアーではなく、会場で船から見る周遊ツアーにダウングレード(泣)
90%の上陸可能性からバッチリすぎるくらい漏れて、傷心のままクルーズへ。
それでも、クルーザーは満員御礼。軍艦島を楽しみにしてた観光客の皆さんもさぞ残念だったろうに…と思いながら、意外に皆さん楽しみな顔されてるのが印象的。
三菱 長崎造船所の100万tドックを抜け、軍艦島を目の前にして、ある「奇跡」が!なんと、降り続いていた激しい雨が、ピタッと止んだんですよ!
オレ、ちょっと「持ってる」男じゃね?と一瞬だけ自画自賛(笑)
そして、目の前の景色に、驚愕と感動を覚える瞬間がいよいよやって来ました!
絶妙のタイミングで激しい雨が止み、視界くっきりの視線の先には、廃墟マニアたちが絶叫しそうなレベルの重厚なつくりの建物群が…。まるで、この島だけモノクロ写真を見ているような…時間とともに「色」が抜けていったような廃墟が、泣いているようにも見えますね…。
かつては海底炭鉱の都市、日本海軍の戦艦「土佐」に見える説などから “軍艦島” という呼称になったわけですが、三菱が買い取ったこの島は、最盛期には当時の東京の人口密度の9倍にあたる5,200人が断崖絶壁にたたずむこの島で暮らし、炭鉱労働が厳しかったことと引き換えに住民は豊かな暮らしをしており、敷地が少ないことから建物はどんどん高層化し、まるでそれは未来都市かのようだったとのこと。
私はたくさん写真や動画を撮りながらも、色々と思いを馳せていました。
明治の産業革命期、様々な事情でこの島にたどり着いた人々が、この島で働き、暮らし、どんな生活をし、どんな未来を描いて生きていたのか…ここからは、あくまでも私個人の感じたことを述べるだけなので、批判はしないようお願いします(笑)
「誰でも希望すれば就職できた」と言われるほどの場所。
誰でも…できた?つまりそれは、希望さえすればいつでもこの島に住環境が与えられ、高待遇で迎えられたということでしょう。高度経済成長に差し掛かっていた日本で「黒いダイヤ」といわれていた石炭を掘る仕事ですから、人手は常に足りなかったというのは理解できます。そこには全国から貧しい人々も少なからず集まってきたわけです。
毎日深さ200メートルの穴での掘削作業、じん肺と隣り合わせの仕事、住居は制約され、お風呂もトイレも炊事場も共同。住民の絆がいくら深くても、ほのぼのとしたコミュニティが築かれていようとも、外からそこに飛び込むのには勇気も要りますし、逆に考えれば、飛び込まざるを得ない状況の人が移り住んでいった…そんな図式は想像に難くないです。
そこに住んでいた子どもたちにとっては、とても楽しい環境だったかもしれません。鉱員・職員の違いはあれど、親たちは皆同じ会社に勤める同僚で、貧富の差を感じることも無く、縦横無尽に広がるラビリンスのような空間で、雨の日も鬼ごっこ…。しかし、親たちにとって、それが必ずしも幸せで楽しく、いつまでもそこで暮らしたいと思える生活だったのかどうか…。
もちろん、島民全てがそういう境遇の人だったというわけではないと思います。中には、特に貧乏ではなかったものの一旗上げてやろうと家族のために奮起した方もいたでしょうし、普通に軍艦島への就職を考えた人もたくさんいたかと。
1960年代に入ると、エネルギーの主役は石炭から石油へと移り、全盛期の1960年に5,000人を超えていた人口は、わずか10数年の間に2,000人まで減少。そんな1974年1月15日、軍艦島は閉山します。
炭坑が閉山されるということ。それは、この島に住む意味を失うこと。住民は島を離れ、大正から昭和にかけての未来的高層住宅を残したまま、無人島へ。
軍艦島は三菱から行政に無償譲渡され、色々経由して、2005年に長崎市の市有地へ。当時「未来都市」として栄華を極めた島も、こうして時代の背景とともに衰退。
“栄枯盛衰” とか “諸行無常” の言葉の通りかと思うと、深く考えるものがあります。
それから35年:2009年に上陸が許可されて、そのときに最初にやってきたのは、元島民だったそうです。元島民の方々は、どんな思いで再びこの軍艦島の地を踏みしめたのでしょうね。きっとそれは、人それぞれ、当時どのような境遇でこの軍艦島に働きにやってきたのかによる…という状態だったんだと思います。
「軍艦島は生きている」
そう言っていた船のガイドさんがいました。最初は何を言っているのかピンと来なかったんですが、次の一言で、なんとなく理解できた気がします。
「5年後にまた来て下さい。姿が変わっていますから」
そうかもしれませんね。これだけの廃墟を現状維持で保存することなど、できるわけがありません。日々、刻一刻と建物は朽ちていっているわけですから。
廃墟なのに、生きている。いや、人工物が少しずつ自然に帰る途中…と言うべきでしょうか。
かつて超高層住宅が立ち並び、昭和の頃に「未来都市」と言われた軍艦島。
今は朽ち果てつつある廃墟という存在になっていますが、その姿も「未来都市」なのかもしれません。
炭坑が閉山したときのように、すぐに石油エネルギーが枯渇したり、地球がおかしくなるという想像はできませんし、資源を掘りつくしたから軍艦島はこうなった…といった私独自の妄想に近い解釈はすべきではないかもしれません。
でも、確実に言えることもあります。少子高齢化が進む日本は、これから収縮していく国家です。産業が、経済が、街が、どんどん小さくなっていくわけです。
現在の軍艦島のように、人がいなくなって抜け殻になってしまう場所は、これから日本国内あちこちに出てくるかもしれません。その一方で、かつての繁栄していた頃の軍艦島のように「あそこへ行けば何とかなる」という最後の砦は、今の日本にはもうありません。
少しずつですが、日本という島全体が、現在の軍艦島のようになりつつあるのではないでしょうか。
石炭から石油にエネルギー資源がシフトしたのと同じように、アジア経済、もしくは世界の経済の主役は今、日本から違う国にシフトしています。
そして、このまま日本人がこの日本列島から減っていけば、軍艦島が三菱から行政の手に渡ったように日本列島もどこかの手に渡ってしまい、残された日本人は世界中に散り散りになる…そんな時代が来てもおかしくないのかもしれませんね。
いや、おかしくないとか言ってる場合じゃないですよね。
将来が不安だから、心配だから、子どもを作らない…ではなくて、子どものために、将来のために、それこそ軍艦島の鉱員のようにがむしゃらになって働くんだ、後世のための未来を自分の手で作ってあげるんだ!という思いを、私たち日本人ももっと持たなければ…と思うべきなのかもしれません。
何が正解なのか…思いを馳せても、私には出せませんでした(笑)
次回は、軍艦島以外のネタにも触れられればと思います。私の妄想に近い考察を読んでくれて、ありがとうございます。