先日、学生時代に営んでいた塾の教え子たちと、しばらくぶりに顔を合わせました。
彼らも彼女らも、もうアラサーです。社会で活躍している者もいれば、婚活中の者もいれば、すでに子どもと家庭を持っている者もいれば、それぞれが幸せに生きているようです。
この子たちには学習面だけでなく、思考や心構えまで相当厳しく指導してきました。今の時代ならハラスメント扱い受けるレベルかもしれません。でも、この子たちからは「あのとき塾長が言ってたことが、この歳になってようやく理解できるようになってきた」と言ってくれています。
思春期では反発するしかなかった子たちも、現実を生きる中で色々と見えてきて、私の話が耳に入るようになってきたみたいで、何よりです(笑)。
ということで、今日は東洋経済オンラインの記事をご紹介します↓
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「褒めて育てる」にはさまざまな歪みあり
──どうして若者の「生きる力」が衰えてしまったのですか。
褒められるのが当たり前になって育った。きついことは言われない。それは欧米流の「褒めて育てる」を歪んだ形で導入したからだ。暗黙の関係性や一体感で動く日本とは彼我の差が大きい。親子関係や夫婦関係に端的に表れている。
──暗黙?
たとえば身近な例で、食べ物の好き嫌いが激しい子どもに食べるようにどう促すか。まず「食べなさい」と命じるのは共に同じ。それで食べないと、米国の親だったら、だんだん語調を強めて「食べなさい!」と強硬に出る。ところが日本人の親は、お願い調に転じる。「食べてちょうだい」「お願いだから食べて」という具合。さらには「今日食べなくても、明日は食べるよね」と譲歩していく。それでも食べないと「もういい」と最後通牒だ。
米国の学者に言わせると、上の立場の親がお願いをするのが、日本ではなぜ説得の言葉表現になるのか、と不思議がられる。「もういい」は心理的な一体感や関係性が壊れるよ、という暗黙の脅しなのだ。
──米国ではつねに言葉でストレートに表現すると……。
すべて言葉とスキンシップでのコミュニケーション。欧米では子は親とは別の個人として厳しく育てられながら、褒めていいところは褒める。夫婦はのべつ「あなたすてきよ、愛している」などと言い合う。日本では考えられないが、欧米人はそれを言わないと愛情を感じられない。日本人には心理的な一体感が形成されているので言葉なしでも通じる。その文化の根底の違いが加わって「褒めて育てる」はさまざまな歪みを引き起こす。
──「褒めて育てる」が推奨されて、20年を超えます。
1990年代から推奨されて、それと並行して、学校教育でも新学力観が適用された。それまでの競争による知識偏重をやめて授業中の態度や関心で成績を決める方向だ。テスト結果のトップクラスの子が5段階評価の5ではなくて4になり、テストはトップクラスでなくとも、たとえば先生に頻繁に質問する子は5になる。これが文部科学省の基準に照らせば正しい。結果がすべてとすると、知識偏重の競争社会が深まってしまう。それを防止するために勉強のプロセスを評価するというわけだ。
国際比較で日本人の学力が低迷しているのは確かなのだが、褒めて育て、成績では厳しく競わせない。そういう風潮で育った今の親世代がまた子育てをするサイクルに至った。もはや褒めて育てるという思想は打ち砕きにくい厚い壁になった。
──厚い壁?
態度や関心でのプロセスを評価するとなると、ついつい自分に対していい態度を取る人に対して評価を高くしてしまう。日本人はとかく関係性で動くから、大人の社会の人事評価自体もうまくいっていないが、それが学校にまで持ち込まれた。グローバル化が進む中で、せめて学校では実力主義でやるべきだと思うのだが。
褒められるのが当たり前になる子どもたち
──そこまで浸透したのですね。
調査の結果、年代で全然違う。若い人だと70%ぐらいが父親や母親によく褒められている。中年以上には、逆に父親は厳しかったという人が多い。文化がはっきり変わってきたのだ。無言のうちに一体感があって、はっきり言われなくても親の愛情は感じる文化から、厳しさ抜きの“エセ欧米流”が取り入れられて褒めまくる。子育て書にも子どもを褒めまくれば伸びる、そんなようなことがいっぱい書かれている。
──弊害が目立つのですね。
褒めまくられて育てられると、褒められるのが当たり前になる。逆に褒められないとやる気がなくなってしまう。「褒めてくれないと自分たちはめげる世代だ」と言う若者も多い。学生時代はそれで通るかもしれないが、社会に出てそれが通るわけがない。そういう若手社員は、うちの上司は褒めてくれないからモチベーションが上がらない、命令してくるからムカつく、さらには人間として対等な立場なのだから、人にモノを頼むのなら上司はお願いすべきだとさえ言い出すようだ。
──褒めに対する嗅覚も鋭い。
褒められ続けると、その状態を維持しなければいけなくなってくる。難しい課題にチャレンジしたら失敗するかもしれない。褒められ続けるポジションから落ちたくないから、確実に褒められる得意な課題に限って取り組み、難しい課題は初めから避けるようになってしまう。
失敗で鍛えられてこそ自己肯定感は養われる
──失敗経験は大事なはずです。
その結果、難題にチャレンジして本人が鍛えられるということがなくなる。一方、褒められてばかりだと、しかられなくても注意されただけで自分が全否定されたように受け取って、怒り出したり落ち込んだりする気質になってしまう。小さな頃から大小の壁にぶつかっていれば、どう乗り越えるかの経験もあって、挫折に強い人間になっていける。
──失敗は糧になる?
しかられたり注意されたりすることで自分のどこがまずかったのか、いわば失敗を糧にすることができる。それを修正することで人は成長してきたはず。ところが、今の多くの親たちは価値観をなくした戦後の人たちに育てられたから、軸がないまま子育てし、子どもに対して壁にも、鑑にもなれない。子どもは子どもで、何でも褒められ肯定されるので、未熟なまま、頑張らないままできてしまっている。
──もともと褒めて育てるのは自己肯定感を養うためでは。
自分の力で壁を乗り越えていくことを経験して初めて自己肯定感は高まる。頑張ってもいないのにただ褒められていい気持ちになっていたのでは、本当の自己肯定感は育たない。ただおだてられて育てられてきたから、がつんとやられたらぽしゃんとなる。だから自己肯定感は低い。
現実に大学でも会社でもちょっと注意すると傷つく若者が増えていて、うっかり注意できない時代になってしまった。がつんとやられても、自己肯定感が強かったら自分に自信があるから簡単には潰れない。
本当の自信をつけさせるには、子どもを信じて鍛える体当たりの子育てから始めるべきではないか。特に幼少期には、たとえば歩き始めたとき、当然親は褒める。厳しい壁を作りつつ、褒めるときは褒める、でいいのではないか。何でも褒めてしからない子育てではダメだ。何かの折に褒めることは当然ある。
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私は、この記事にほとんど賛同しています。
褒めて伸ばすのは悪くはありませんが、褒めるだけの子育ては、子どもをどんどん軟弱にしてしまうか、もしくは、つけあがって勘違いを起こさせて周囲に迷惑を及ぼすような子に育ってしまうかでしかないからです。
なので、私は褒めもしなければ、けなしもしないんです。
子ども自身に気づかせるように仕向けますから。
ただ、子ども自身がいつ気づけるかは、ある程度時間が経過しないと分かりません。
お子さんの成長を我慢して見守れない、口が出てしまう親御さんは厳しいでしょうね。
とはいえ、そういったご家庭の親御さんは、大体はお子さんが良い状況にあるとは考えにくいですが…。